日米ポルノグラフィー出版物規制の伝統と傾向
(2002年3月改定)
高度経済発展を成し遂げた国家社会、各国の中にポルノグラフィー訳注1産業は存在します。しかしどの社会も露骨な性的表現を同じようには扱っていません。
日米両国は共に巨大な性娯楽産業を展開させ、その市民の需要に見合う物品・サービスを提供しています。全体的に見れば両国の猥褻・ポルノの物品に対する規制の法的枠組みは似通っているように思えます。まず両国ともに猥褻物の販売及び配給を禁止しつつも、憲法の中で表現の自由を保護しています。
しかし、両国ともに二十世紀に入って露骨な性的描写作品の規制を緩めていますが、現実的にはポルノグラフィーは日米の間で大変異なった扱いを受けています。日本ではこれらは豊富に入手しやすい物品にして、その内容の品質と傾向は千差万別です。同時に政府はこれらの物品に対して広範囲な検閲する力を持ちつつ、この産業を誘導する為に密に連絡を取り続けています。アメリカでは規制する側は、法廷の場においての弁論と逮捕時のやり取りを除いて滅多にポルノ産業と連絡を取ることがありませんが、これにも関わらず規制する側の力は法廷によって縮小の一途を辿っています。アメリカのポルノ産業の大きさは日本のものと同等かもしれませんが、その配給経路は大変限定され、その内容は高度に発達した性的描写を伴った文芸作品(エロチカ)と取るに足りない平凡な写真集とビデオ等の二つの対極に分離しています。
倫理関連の後見人制度の歴史的軌跡と役割は現代の日本とアメリカの露骨性的描写作品のメディア全体像に対して大変な影響力を発揮してきました。この論文は露骨性的描写作品に対する規制の歴史的軌跡とその規制の性質の移り変わりを辿り、日米間で今現在の異なる性的表現作品の土壌の現実が如何に形成されてきたかを検証するのを目的としています。
社会の文化と伝統は言うまでも無くその社会の性、性志向、露骨性的描写作品などに影響を与えますが、これだけで様々な社会による規制枠組みの性質の多様さを説明するのは不充分です。規制は性的描写作品ジャンルが何を生産するか、生産されたものをどのように配給するかに直接影響を及ぼします。すなわち、規制機関の役割を管理・言及する者はその社会に置ける性的タブーの創作、維持、変質、撤回などに多大な影響力を誇っているのです。この力は社会の中で平等に割り振られているものではなく、この力を持つ者がその権力を如何に維持するかもその社会の性的描写作品の全体像に影響を及ぼしているといっても過言ではないでしょう。
ここで気を付けていただきたい点はポルノグラフィー、露骨性的描写作品、猥褻物などはそれぞれの社会によって定義付けられているものということです。アメリカ社会でもここ百年の間でポルノグラフィーの定義は大きく変わってきましたが、今尚も多くの人々はポルノグラフィーは簡単に判別できるものであると信じています――「(なにがポルノかは説明し難いが)見れば判る」と言った具合にです。この論文は文化の枠組みの超えて比較を試みていますが、異文化比較ではこのような定義の曖昧さはさらに悪化します。つまり2カ国の間でもポルノや猥褻の定義がかなりの差異がある為、片方ではまったく問題のない描写ももう片方の国に行くと途端に問題になると言うことが多々起こり得るということです。例えば日本で子供向けに出版されているマンガの中で小学生の裸体――時折のシャワーシーンや隔離された場所での水遊び等――が描写されることは珍しくありませんでした。多くの(ギャグ)マンガ家は排泄物をネタにした作品を通してその生計を立てていることもありますが、日本の一般大衆はこれらの事柄におおよそ余り関心を向けません。アメリカでは考えられない事柄です。しかし同時にアメリカで撮影された自他ともに芸術的と認められる裸体の写真集が日本に持ち込まれるに際し一部修正されなければいけませんが、これは日本では成熟した男性女性の性器の赤裸々な描写は猥褻であるとされているからです。露骨性的描写の度合いや猥褻性は自己完結している「真実」であり、社会の中で絶えずその定義は改められ続けられて行きます。
しかしポルノグラフィー、猥褻、及び露骨な性的作品が規制機関によって絶えず再定義、言及されているものと仮説すれば、よりはっきりとした全体像を捉えることができます。この論文は主題は、「公序良俗に反する」対象となりえるモノを管理する欲求を抱く規制する側の本質と動機に向けられています。