ミネソタ大学歴史学部1999年秋学期
歴史講座3960「性的傾向の歴史」準ゼミ(アンナ・クラーク教授主催)
日米ポルノグラフィー出版物規制の伝統と傾向
(2002年3月改定)
兼光ダニエル真
序文
日米の現代の姿勢の差異
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両国で露骨性的描写作品が似た立場で存在
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低俗な芸術として取り扱われている
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子供への影響の危惧、暴力を誘発されるものと仮定、社会秩序への脅威
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扱いの大きな落差
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物品の入手
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娯楽手法としての一般的認知
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日本では大手出版社が取り扱っている露骨性的描写作品
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アメリカでは出版社はこぞって避ける
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規制に巡る論議
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討論題材の無様・礼儀
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日本では論議の対象としては避けられる(臭い物に蓋)
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アメリカでは論議はその人間の主張を発揮する場所にして、大変活発
歴史的軌跡、東洋西洋文明両方において長い伝統を誇る文化
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国家制度以前の規制、娯楽と文化の領域の差別・区分
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共通性
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西洋において民衆文化と高尚文化の明確な差別化
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日本における似た差別化:侍文化と農家・町人文化
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差異(統治者からの観点)
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西洋における垂直にして平等主義の教会と中産階級の志向
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神の前では万人も同じ、だが中にはより貞淑でより良いキリスト教も居る
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西洋における宗教団体の権力
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日本文化の区画化志向(「『場』の統治」)。「身分相応」の倫理規定と隔離された生活領域
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文化の完全統合の波
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西洋:工業化と都会化=中産階級の拡大と躍進
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テクノロジーがもたらした知識の一般化(上流階級が独占することが出来ない)
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科学=管理=権力の構図
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東洋:近代化の推進(維新侍達の躍進)
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「現代(近代)人的市民」の必要(民衆の近代化への期待)、日本人を再開発する必要性、民衆全体を侍にすることへの欲求=日本の民衆を侍文化の中に統合し、導くことをはっきりと意識
両国での近代での規制の軌跡
日本での歴史的軌跡
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1860年代から1880年代:若干のリベラリズム(自由個人主義)、教育の改革、出版の一般化、政治闘争に対する限定された検閲、英米のビクトリア的性意識の輸入と不平等条約を盾に日本の性意識の「近代化」を押しつける欧米。
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1880年代から1920年代:競争する制度――自由を求める作家と芸術化と秩序を求める国家統制主義教育環境、大衆文化の混沌
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1930年代から1945年代:文化の国家総動員
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1945年代から1952年代:アメリカの進駐、表現の自由の原則の導入と近代化の為の検閲
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1955から現代まで:断続的論議の勃発と緩やかな継続的規制緩和
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1960年代の争議:PTAとマンガ
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60年代後期から70年代前半の文芸の作品に対する全体的規制緩和
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1991年の争議:有害図書問題論争
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90年代中期の裸体写真の規制緩和
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1999年の争議:児童ポルノ論争
米国での歴史的軌跡
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コムストック以前の時代
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ヨーロッパの「秘密の博物館」の伝統
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エリート階級の倫理関連の社会一般の為の後見人制度の異論なき浸透、それを伴う「影響されやすい」民衆に対する締め付け政策
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乙女として捉えられた「(影響されやすい)若者」像(1868年の米最高裁の「ヒックリン試験」:その物品に一般民衆が接触して、民衆に影響を及ぼせるかどうか)
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赤裸々な性行為が社会秩序に脅威を孕むとしての前提を基づいた論議(実際には階級闘争への恐怖への裏写しとも言えなくも無い)
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1860年代から1910年代:コムストック時代
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出版技術の向上とポルノグラフィーの増量
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文盲率の低下
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米国内の倫理問題後見人についての争議、倫理問題に対する無関心
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コムストックの強大な権力:市民の手に入る物品なら総て弾圧の対象と出来る彼の広範囲な管轄権、「若者」像の男性化(ポルノ中毒の前提)
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1900年代から1970年代まで:近代的ポルノの設立
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芸術とポルノの差別化開始:作品の価値・意図・背景が検証題材に
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ヒックリン試験の風化、価値観の変化が法廷でも認められる
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1922において「全体書籍」の概念が導入(一部猥褻が問題ではなく、その本全体が猥褻かどうかが論議の対象)
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ポルト・猥褻の争点は合法と非合法の線引きについて(グレイゾーン)に固執【日本とは大きく違う】
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1933年ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」の合法認可以降、芸術対ポルノの対極化議論が白熱化
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芸術とポルノを差別化する論議が進行、猥褻並びにポルノグラフィーの「核心(ハードコア)」の判別・隔離への関心
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1957年最高裁判事ボックとフランクが「正常な性的作品」を誉める
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1957年の最高裁判決(出版社敗訴)で判事ブレナンが「社会的価値が著しく欠如している」という文章を判決文に書き記す:「著しく(欠如)」という概念の意義
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ハードコアの隔離、「ハードコアポルノ=マスターベーション=情操成長の停止=社会への脅威」の図式の開始
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1970年代以降:ウォルター・ケンドリックの提唱するポストポルノグラフィー時代
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1966年のファニー・ヒルの合法の判決(長年ポルノ小説の代表とされてきた小説の合法認可)、1967年ジョンソン大統領政権が開始したポルノ調査報告書(ニクソン政権になってこの報告書が完成するもあまりにリビラルでポルノ解禁に肯定的だった為にニクソンは同報告を結論を否定)
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アメリカにおいて近代ポルノグラフィーの定義の完成:ポルノを「ゴミ」として定義する、即ち一般から迫害され、存在価値が無く、想像力を反映せず、芸術性が欠如しているモノ
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一般がポルノを入手出来るか、芸術かポルノかの二つの議論に取って替って進行する議論:性傾向・志向の競争
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宗教と性生活の議論
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極度フェミニズミによる性意識の強制改革
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同性愛者の躍進と反同性愛者との闘争
結論
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この日米比較で浮き彫りになったのは両国が個人アイデンティティーと倫理観が何に依存するかと仮定していること
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アメリカにおいては個人の性志向はその人間の態度、倫理観、そして価値観を決める。即ち個人の性志向と人格は二分できないものとされる――それ故に個人の性志向を管理・導く必要が出てくるのである。つまりこの世をより良い世にする為には個人の性志向と対面する必要があり、個人の性志向はポルノグラフィーから多大な影響を受けていると仮想されているのである。
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日本では個人の価値観や倫理観は社会或いは帰属する団体によってほぼ決められると仮定している。即ちに日本人個人の倫理観は「場」に依存するものであり、個人の人格とはあまり関係ないと言えなくも無いとされている。(もちろんこの点について以前議論は続いているが。)個人による非行は社会全体の歪みの反映であるとされる。即ち、社会の歪みを誘発させるような要素から社会を守る必要があるとされるのである。領域の範囲に付いては議論が起きることは珍しくないが、公的共通倫理観の必要性は当たり前とされているのである。問題は誰がその公的共通倫理観を制定して一般市民を導くべきかと言うことに戻ってくる。(以前として倫理観は「国有化」されているのである。または「国有化されて当然」とされているとも言えるかもしれない。)だれが基準を制定するのかいまだよくはっきりしていない。【アメリカでは市民自身が多数決をもって、或いは陪審員制度を通して自分達で決めるのが「当然」とされているのである。】
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現代の挑戦
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米:共通性志向性の崩壊、競争する性志向
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日本:混乱した倫理観、倫理観後見人制度自体に対して疑いは発生せずとも汚職で失墜した官僚や警察に対しての懐疑心、理想論に対する幻滅、関心を集める「専門家」
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日米両国ともに倫理と社会様相が大きな変貌の渦中にあることは間違い無い。検閲は安定と秩序への要望、社会構造の約束事の維持や改造・維新に対する渇望などを反映しているのである。
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